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我家を始め近所の子ども達も幼稚園・小学校に通う年齢となったことで、家の周辺では日常的に『群れ遊び』が繰り広げられていた🏃♀️🏃🏃♂️。見ていて微笑ましい光景だったことを今でも記憶している。ご近所の皆様には本当に感謝である😊🙇♂️。
そんな中「〇〇ちゃんが叩く!」「○○ちゃんに蹴られた!」・・・三男がよく訴えて来た。群れの中では一番年下なので他の子ども達からすると足手まといなのかもしれない😓。
最初は家庭内の事だったので、三男が訴える毎に長男・次男を一方的に叱っていた💢。すると徐々にその回数が増えていき、近所の子や幼稚園の子にもやられたと言うようになった。あまりにも多いので周囲に問題があるのではないかと考え、近所や幼稚園に訴えようとしたことがあった🙎♂️💨。
しかし、よくよく状況を聞いてみると三男が先に手を出している場合が多く、相手に問題があるとは言い難いことが殆どであった😥。確かに長男・次男もなぜ叱られているのか分からない様子であった。
では三男が都合のいいように『嘘』を言っていたのだろうか・・・🤬❓
当時の私は『善悪を教えなければ!』との使命感から『悪』の行為に対して厳しく叱責していた。なので三男の訴えは自分への叱責を回避するための行動だったと思われる🧐。
確かに三男は、自分の『危機』をどのようにしたら回避できるか長男・次男という『お手本』から学んでいた。幼児期とは言えその学習能力は目を見張るものがあり、要領の良さは群を抜いていた。そんな三男の思惑に見事に乗せられた私は周囲に問題があると思い込んでいた。まさに典型的な『バカな親』であったと今では思う😓。
この『群れ遊び』段階では、子ども同士の様々なぶつかり合いによりコミュニケーション能力の基礎を『感覚的』に培うと言われている。その行動では喧嘩やいじめ等の行為も見受けられる。
しかし、よく考えてみるとその年齢の子ども達が喧嘩やいじめをしたからといって命の問題に発展する確立は極めて低い。逆に小さな喧嘩やいじめを経験することにより、『やる痛み』『やられる痛み』を経験し、それが先々で『相手を思いやる』心の基礎となるのではないだろうか?
そう思うようになってからというもの、三男を始め子ども達の訴えに「痛かったなぁ☹️」などと共感するものの、子ども達の群れに介入する『気』が起こらなくなった。そうなると、子ども達の訴えも少なくなり仲良くしている光景が目につくようになった😄。
つまるところ、問題なのは『教育観』にとらわれていたこの私であり、子どもの問題はその取り巻きである周囲の大人の問題であると思えてならない😥。
法務教官として青少年の更生に関わる職につく現在の三男をみて、そう思う今日この頃である。