中村社長のコラム 「保護者」から「親」へ … 子育ての評価とは?  PART15 ~ 子どもの「自立」とは親(保護者)の真似!

「今年は東京オリンピックだ!」

と意気揚々と新年を迎えた2020年。まさかこんな経験したことのない大混乱の年になるとは…災害は突然やって来るとはこのことだと思い知らされた年でしたね。自分の身に何が起こるか分からない…こんな想いをしているのは私だけでしょうか?

コロナ禍が押し寄せてきてからというもの、日々情報を確認しその都度判断するという気の抜けない日々が続いています。ですが、こんな大混乱の情勢をプラスに考えると「常に前を向いて進む」ことが第一だということ。どんな事態が身に降りかかろうとも常に「前へ進むためには何をすべきか」を考える姿勢が今の時代を生き抜くことだと教えられた気がします。本当に強い心が必要な時代ですね。

 

目次

私の考える「自立」とは・・・

さて、不登校児だった次男が社会人となったことを節目に書き始めたコラム『保護者から親へ…子育ての評価とは?』。私のしくじり(・・・・)から学んだ子育て論とでも言いましょうか!?前々号からはその総括として生きていくポイントともいえる「自立」について考えています。今号では子どもの自立のために親としてどうあるべきだったか…について当時を振り返って考えてみたいと思います。

 

本題に入る前に私の考える「自立」とは、「楽しく生きる」ことを前提に

①自己責任を基本とする行動

②良好な人間関係を築く能力

この2点が基本的な行動スタイルとして身についていることです。

(詳細はNAPホームページ・コラムのコーナーをご覧下さい)

子どもの「自立」のための親の在り方…などと大層な事を申しましたが、大変難しい問題ですし、家庭の事情や人生は様々ですから、簡単に語れるものではありません。そのうえで私は「親が自立した行動スタイルであるかどうか」ではないか、と思っています。

これは理想論ではなく、私自身の失敗も含めて様々な子どもの成長に関わる人間間のトラブル、悩み等を見聞きしてきた経験から今つくづく思うことです。

 

子どもの成長は親の「真似」?

子育てヒントのお話し会でおなじみの「やさしいお母さんになれる子育てのヒント(雲母書房)」の著者・樋口邦彦氏はお話し会のなかで、「躾とは親が子どもになってもらいたいように振舞うこと…常に真似されていることを恐れておくべきだ」と語っておられます。挨拶ができる子になって欲しかったら親がきちんと挨拶をしていればいいのです。(我が子に対しても)逆に、躾のつもりで厳しく「挨拶しなさい!」と言うと、子どもは挨拶をすることではなく、他者に「挨拶しなさい!」と厳しく言う行為を学ぶのです。つまり「躾」によって子どもが学ぶことは「他者を躾けること」なのです。こんな子は友達からは嫌われますよね。子ども達の会話や行為を見聞きしていると樋口氏の言われることがよく理解できます。(我が子もしかり…)

他にも、話し方や行動も親に似ているのはDNAによるものよりも後天的な「真似」による領域が多いようです。「蛙の子は蛙」という諺がありますが、よく言ったもので生き方までも「真似」によるものが大きく関係しています。ですから、子どもの自立を願うのであれば、まず親・保護者(子どもにとって最も近い存在の大人)が自立した行動スタイルであることだと私は感じています。

では、実際はどうでしょうか?親であるということは、自立した社会生活を送っているという前提となりますが、私の考える自立の定義から考えると実際のところ当てはまらないケースをよく見かけるのです。

何を隠そう!偉そうに自立を語っておきながら私自身も「自立した親」ではなかったのです。

 

親として無責任=バカな親?

最初に次男が学校へ行かなくなった時、見た目は「学校へ行かない生き方もある…」等と理解を示すようなことを口にし平静を装っていましたが、正直なところ本音では「これでいいのか…」と狼狽(うろた)えていました。

 

そのことを樋口氏に個人的に相談したところ「親としてどうしたいのかはっきりしろ!」「親の軸が定まってなかったら子どもはいつまでたっても戻れないぞ!」と、こっ酷く言われたことを昨日の事のように覚えているのですが、当時の私は確かに「子育てはこうあるべきだ!」等の世間一般で掲げられている教育論を崇拝し、その物差しで子育てに関わっていた典型的な「躾(しつけ)親(おや)」でした。そこには、自分の意志はなく他者が打ち立てた理論や物差しにすがっているだけ…つまり親であることの「(自己)責任」を他者に転嫁していたのです。にもかかわらず「自分は責任ある親だ!」等と自負していたのですから質(たち)が悪い!今思えば「バカな親」の典型でした。

そんな無責任な姿勢を樋口氏に徹底的に叩かれた訳ですが、詰まるところ、子どもの不登校の第一の原因はそこにあったのではないかと思います。言い換えれば、親が無責任な位置に立っているのですから、その背中を見ている子どもが迷ってしまうのは当然ですね。その訴えの表現が不登校だったのかもしれません。

 

自分に目を向けるしかない・・・

今振り返れば、樋口氏には「そこまで言うか!」と言いたくなるくらい、私の無責任な姿勢を完膚なきまでに叩きのめされたのですが、人間そこまでいくと他人に責任転嫁をする気力もなくなり、自分に目を向けるしかなくなったことを記憶しています。お陰で(!?)、子どもの現状がどうであるかよりも、これまでの親としての自分自身の振る舞いや考えを振り返り、口にしていることと実際の行動の矛盾等、自分の無責任な行動や言動を認めざるを得ませんでした。そして、最終的には、父親という立場になった経緯や自分がどう育てられたかまで掘り下げ、親の責任とは何かについて考えることができました。直ぐに答えは出ませんでしたが、時間をかけ自分自身を振り返ったことで何かしら腹に落ちたものがありました。

それは…

「何をしていようと自分の子だ!」

という感覚でした。

 

自分の意志で親になった!

感覚的にこの位置に立つと不思議と「楽(らく)」になり、子どもが学校へ行こうが行くまいが、ゲームばかりしていようが全く気にならず、終(しま)いには子ども達に「お父さんはおかしい!普通こういう時、親は怒るものやろ!」等と言われてしまう始末。また、周囲から「それでも親か!」等と親としての姿勢を非難されても、全く動じなくなりました。

今思うことは、親(保護者)の自己責任とは親(保護者)であることの覚悟であるような気がします。元々自分の意志で親になったのですから当然と言えば当然ですね。

 

最後に申し上げておきますが、樋口氏は皆さんには優しい方ですからね!ぜひ、「子育てヒントのお話し会」に参加してみてください!

次号に続く・・・

 

 

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