やられたらやり返す??幸せの倍返しを(中村社長のコラム)

shachou今年6月のことですが、山口県教育委員会(以下県教委)の主催で行われた「体罰のない学校づくり検討会議」なるものに委員として参加する機会を得ました。

テレビ局を始め各報道機関の関係者が取り巻く中、県教委の学校教育課、市町村の教育委員会関係者をはじめ弁護士・臨床心理士、大学教授・小中高それぞれの校長会長等々、蒼々たるメンバーの中に民間スポーツクラブの代表として私が出席しました。

県庁の議会棟の特別会議室で行われたのですが、このような会議に委員で出席するとは、私も偉くなったものです・・・と言いながら県教委に友人がいただけでのことですが(笑)指導や子育てにおいての「体罰」ひいては「罰」そのものについて改めて考える良いきっかけになりした。

目次

私自身の体罰の思い出

その会議でも述べたことですが、私の義務教育時代(昭和40年~50年代前半)は体罰など当たり前のことで、小学校ではゲンコツ・ビンタ、中学校ではそれに加え殴る蹴る、今で言えば「暴行」に値するような行為もよく行われていましたが、誰も先生の指導を問題視するようなことはなく、むしろ体罰を受ける側が問題だと捉えていました。まぁストレートに言うなら、殴られたら殴られたヤツが悪いのであって、先生(指導者)としては当然の行為だと思っていた、いや、社会的にそのような通念が定着していたのです。

親には絶対に言えないこと

こんな時代だったので、家に帰って「先生に殴られた」などと言おうものなら「何をしでかしたのか!」とこっぴどく叱られ(家によっては更に殴られることも)しまいには「そんな子に育てた覚えはない!出て行け!」等と言われる始末。だから、口が裂けても先生に殴られたとは言えませんでした。私と同年齢以上の方であればうなずいていただけるのではないでしょうか。

そんな私の感覚では指導現場では「体罰」は付きものでしたし、更に大学の「体育会」という体罰によって統制が図られている世界を経験した身からすると、本音では体罰があったからと言って驚くほどの気持ちはないのですが、そうはいかなくなった今の時代だと認識しています。この会議も体罰に対する世論を受けて開催されたようですが、体罰について、いや、もっと言うなら「罰」そのものを考え直さなければならない時代に来ていると私は感じています。

我が家での出来事から

私自身、指導という場や子育てにおいて「殴る」という体罰は殆どしていませんが、「罰」を振りかざすことはよくありました。

例を挙げればきりがないぐらいですが、その中で今年大学2年になった次男がNAPの選手育成コースで泳いでいた小学校3年の時のことです。光市にある施設での合宿に参加したのですが、折角の機会だからお金の使い方を教えようと、小遣い銭を少し多めに渡して、全部使わずに次に合宿のために残しておくように言い聞かし、もし全部使ったら練習の後のジュースやアイスクリームは1ヶ月間なし!という「罰」を設定して送り出しました。そして、帰って来た次男の財布を確認してみると・・・空っぽになっていたのです。

そのことを問い詰めたところ苦し紛れに「帰りに立ち寄った海辺で落とした!」と答えたのです。勿論、嘘をついているのは見え見えなので「落としたのだったら、探しに行こう!」と泣き出した次男を無理やり車に乗せて1時間以上かかる光市の虹ケ浜まで連れて行ったのです。何十分も探させたのですが、当然あるわけもなく、日暮れと共に帰路につきました。帰りの車の中では終始無言だったことを覚えています。

「家庭教育」の成果は?

当時は、家庭教育という大義名分のもと威厳のある父親であらねば!などとバカな幻想を抱いていた頃なので、このようなことを平気でやってしまったのですが、その結果がどうだったか?家庭教育としての成果があったのでしょうか?

その後、合宿ではないものの場面が変わると小遣いを使い果たして帰って来ることが多く、結局罰があるからであって、お金の使い方を身につけた訳ではありません。

考えてみれば、そんなことを教えようと思ったのは親の身勝手であり、納得させる自信がなかったので、「罰」という暴力に頼りわからせようとした。そして、次男が嘘をついたのもこちらが暴力を加えたからに他ならないのです。それらすべて子どものこれからに「期待」し、良かれと思ってしたことですが、暴力を加えたことに変りはありません。

しかし、これが次男の心の成長にプラスに働くはずがありませんし親子関係としていいはずはありませんでした。その後、特に10才を過ぎたあたりから私に対してあからさまな反抗が始まり、不登校などの問題が発生していったことはこれまでもお伝えして来た通りです。

豊かな時代がもたらしたもの

私の子どもの頃は、社会全体が「豊かさ」を求めていた時代でした。だから、この目標の達成のため、すべての理屈が「暗黙の了解」として整っていたのです。ですから、体罰を受けてもその意味がなんとなく理解できていましたし、その場では納得がいかなくとも報われる時が来たのです。しかし、「豊かさ」を達成した現代においてはその図式が180度転換したのです。体罰や罰を加えられた時にそれを受け入れ我慢することの報いがあるかどうかわからなくなったのです。そのため、子ども(受け手)にとってそれらはすべて「暴力」でしかなく、力関係が逆転した時に対抗する暴力が表出してくるようになったと思えてならないのです。

「やられたら、やり返す!」

いや「やったら、やり返される」時代になったのです。しかもその間暴力性が鬱積していますので「倍返しだぁ!」となり、不幸な出来事へと発展していくのだと私は考えています。日本の刑務所の再犯率は80%くらいだと言われています。(評価の方法にもよりますが)罰は必ずしも更正につながっていません。なので、反省し繰り返してほしくないことは、根気よく説得した方が通じるというのが私の経験です。そして良好な関係が築ければ楽しい生活が広がったのです。

罰は暴力、楽しさは幸せに!

少々難しく重たい話になってしまいましたね。発想を変えて、体罰・罰という暴力だから不幸なことに発展するのであって、「楽しさ」であればどうでしょう。必ず幸せとなって返ってくるのではないでしょうか?「楽しさ」・・・言うのは簡単、やるのは大変難しいことではありますが、そのために何をしたらいいかを考え行動を起こさなければなりません。たぶん最終的にはあの手この手で根気よく工夫しやり続けるしかないでしょう。あれこれ考える前にまずはやることですね。

じゃぁ、いつやるの!

「今でしょ!」

すみません。こんなことを言ってもテレビには出られませんよね。ちょっと羨ましくなって真似してしまいました(謝罪)

2014年が皆様にとって「幸せの倍返し」の年となりますようお祈り申し上げます。これからもスポーツクラブNAPをよろしくお願い致します。

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